「見えないもの」が信じられますか?
現代の日本人は「見えないもの」に価値を感じられるだろうか?
日曜記事なので、そういうざっくりしたことを考えてみたいと思います。

◇兵庫県豊岡市のお墓のアドバイザー大北和彦です
兵庫県豊岡市のお墓と墓石のアドバイザー、おおきた石材店です。
☑ 兵庫県北部で唯一の「お墓ディレクター1級」
☑ 雨漏りしないお墓「信頼棺®」正規代理店
☑ (一社)日本石材産業協会正会員
☑ お墓の法律のプロ、「墓地管理士」取得
おおきた石材店はお墓のことを全く知らない人にも、お墓を建てる時に大事なことをわかりやすくお伝えすることを第一に考えて情報発信しています。
現代人、特に最近の日本人は、目に見えないものは、存在しない、価値がない、と考える人が一定数いるようです。
一例として、仏教は必要ない、お墓も必要ない、葬儀も必要ない、と考えるような方です。
こういった供養と一般にくくれること、もの、行いは生きていくうえで絶対に必要ではありません。また、「やってもやらなくても変わらないなら、必要ないということでしょ」という考えも成り立つと考えます。
一般的に、人は自分と近しい人、交流のあった人が亡くなると、大きな悲しみ、苦しみ、悲嘆、喪失感を感じます。これは世界中、どこでも共通の感情だと思われます。
特に日本人はそういった割り切れない、いつまでのなくなることのない感情を少しでも自分の中に納めるために、仏教という教えを取り入れ、日本的に一部解釈しなおし、故人との別れの儀式として、弔いという儀式を広く採用し、自分がそのことで受けた心の傷を仏教的な儀式を通じて僧侶の力を借りて癒したり、お墓という構造物を発明して、亡くなった人の一部を納めることで、心の中に空いた背負いきれないその故人の存在をそこに一旦、納めた、と私は考えます。
そういう行為を価値がない、という考えは認めますし、あってもいいのだろうな、と考えます。
供養という行為は、あくまで個人的な、プライベートな行為です。国が認める、認めないということではないと思います。誰かがやるから、私もやる、ということでもないし、世間ではやっているから、私もやらざるを得ないということでもない気がします。
お墓を建てることを仕事としている、私が言うのも少しおかしいのかもしれませんが、「お墓が必要ない」という考え方は否定はしませんし、そういう考え方の人がいてもおかしくはないな、と思います。
ただ、私自身は「仏教」も日本人には、とても合った宗教だと思えるし、「葬儀」は故人とつながりのあった人との別れの儀式としては故人も残された人にとってもお互い必要だと思います。
そして、「お墓」も極めて大切な、故人と繋がれる場所、装置、存在だと考えます。大切だと考えるので、それを作るお手伝いを仕事としているのだと思います。このことを大切だと思わないなら、おそらくこの仕事をしていないはずなんですよね。
「見えないもの」を大切だと考えられるか、だと思います。
目に見えなくても、凄く大事だと思えることはたくさんあります。そこに重きを置いているかどうか。
私は個人的には、仏教、葬儀、お墓という部分は極めて大事だと考えます。自分のルーツであり、一番近しい人との関係です。そこに価値がないと強引に蓋をしてしまうことは、その後の人生にあまりいい影響を与えない気がするんですけどね。
サン・テグジュペリの「星の王子さま」の一節、
「ほんとうに大切なものは目にみえない」
という一説は私にとっては極めて大切な言葉です。