誰も約束していないのに、そこで会う
お盆の墓地を歩いていると、時々こういう光景に出くわします。
お墓の前で、大人が数人立ち話をしている。子どもたちは少し離れたところで、退屈そうに石の縁に腰かけている。手桶と線香の煙。「久しぶり」「大きくなったなあ」「今どこ住んどるん」——聞くともなしに聞こえてくる会話から、この人たちがいとこ同士で、しかもかなり久しぶりに会っているのだとわかります。
誰かがLINEで日時を決めたわけではありません。ただ、お盆の初日にお墓に来たら、そこにいた。それだけです。
考えてみると、これは結構すごいことです。同窓会は幹事が動かないと開けません。法事は施主が案内状を出さないと集まりません。でもお墓は、誰の連絡もなく、勝手に人が集まるんです。
「お墓の前で会う」の丁度良さ
いとこという関係は、なかなか難しい距離感です。
親戚だから他人ではない。でも、大人になれば普段は会わないし、わざわざ「お茶しよう」と誘うほどでもない。SNSでゆるく繋がっているくらいで、10年会っていない、というのは全然珍しくありません。
そういう関係にとって、お墓の前は本当にちょうどいい場所だと思います。
まず、滞在時間が短い。お参りが終われば自然に解散なので、気まずくなる前に「ほな、また」と別れられます。話題に困らない。おじいちゃんの話、実家の話、あの頃の話。共通の思い出が石の前に立っているようなものなので、初手の会話に悩みません。そして、次に会う日程を決めなくていい。「また来年のお盆にな」で終われる。これが同窓会になると幹事の負担が生まれるところを、お墓は勝手に来年の同じ日を約束してくれます。
お盆にお墓に集まるという習慣は、いとこ同士のような「切れると復活しない」関係を、細く長く保つ装置として、非常によくできているんです。
「お墓は生きている人のためにある」
石屋の仕事をしていると、時々こういうことを言われます。
「うちは無宗教だし、そんなにお墓にこだわりないんですよ」 「子どもに迷惑かけたくないから、お墓は要らないと思ってる」
言われることはよくわかります。でも、その方たちに私が返したいのは、こういうことです。
お墓というのは、亡くなった方のためだけに建てるものではありません。
でもあります。お墓の前で立ち話をしている、あのいとこ同士のような光景を、次の世代にも残せる装置。それがお墓です。
もしお墓がなかったら、あのいとこたちは、たぶん10年後にも会わないままです。SNSの近況を眺めるだけで、実物としては会わない。会わないまま、次の世代ではもう「そんな親戚がいたらしい」になっていく。
石屋の仕事は、待ち合わせ場所を建てること
こういう光景を何度も見ていると、自分の仕事の意味も少し変わって見えてきます。
私たち石屋は、石を売って、彫って、据えているようで、実際には家族の待ち合わせ場所を建てているのかもしれません。何十年もそこにあって、案内状も予約も要らずに、お盆になれば人が集まる。そういう場所を、一つひとつのお墓は担っています。
だから、「そんなに立派なお墓は要らないので」というご依頼にも、私は全力で応えます。立派である必要はないんです。あるべき場所に、これから何十年も動かずにいてくれさえすれば、それは十分に「待ち合わせ場所」として機能します。
おわりに:今年のお盆は、少し早めに墓地へ
もしこの記事を読んで思い当たる節があれば、今年のお盆は少し早めに墓地に行ってみてください。
いとこがいるかもしれません。会えなくても、同じ日にそこに来ようとしている親族がいるということだけで、少し心強くなる場所です。それがお墓の、静かで大きな仕事だと思います。
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